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建築オヤヂの呟き:自身の話し/学生編

 初めて🦆知れないが今日は自身を語ってみようJAMAICA。それも若い頃の。

 実は来月の半ばになると豊臣秀吉より年上になってしまう。昔っから豊臣秀吉ファンのオイラは還暦を迎えるよりも感慨深いもんがあるんだ。
中2の時に別居した父はオイラが26歳の時に54歳で亡くなっているんで一昔前に父より年上になっているし当然その時は織田信長より年上だ。

 そんなSean少年だが(ってイキナリかよ)、今もそうなんだが、背が低く華奢で線が細かった。当然いじめられっ子だったが当時は一人のいじめっ子&その他は全員いじめられっ子と言う構図だったので全く苦にならなかった。

 中学に入ると母方の叔父の影響でギターを弾き初め、その内電気ギター(笑)に手を出しSean Bandを結成した。いつかはミュージシャンになりたいと思っていた。
それで肝心な学業の方だが頭は超平均的で中3の時の二学期の通信簿(成績表)はオール3だ。はい5段階評価の通信簿が全て3と言うのは狙って取れるもんじゃ無いので自慢したいぞ。
 母子家庭のクセに諸般の事情(?)で公立高校には行かず猛母が小料理を営みその稼ぎで都内の私立高校に通わせて貰った。
帰宅部だったが高2から母方の祖母の勧めで渋川剛気のモデルとなった御仁の道場に通いだしたし、彼女も居たし(笑)オートバイの免許を取得し乗り回していて(あっ、暴走族じゃ無いよ)それなりに楽しい高校生活だった。
 母子家庭だったので当然就職組だったが当時の遊び仲間達が一様に大学に行くとノタマウので、それに釣られてつい大学受験をしたらついとある私立大学の工学部に受かってしまった。
ん、σ(゚∀゚ )オレって実は頭が良いんJAMAICA?1浪すれば有名大学に行けるんJAMAICA?大学に行けば華やかなキャンパスライフ(死語?)が送れるんJAMAICA?と思って母の稼ぎで予備校に通わせて貰い翌年数多の有名大学を受験するも、滑り止めの大学迄含めてコトゴトク不合格。まぁ、合格しても自力で授業料を払って行ける目処は無かったんだけど…
悔しいんで(?)宅浪(自宅浪人)して再々挑戦した。そして合格した大学の内、授業料が安いってダケの理由でとある教育学部にご進学。
当時の授業料は15,000jpy/月だったが母子家庭が故にこれは無料。
おまけに20,000jpy/月の奨学金の貸与に加え、家庭教師のバイトが30,000jpy/月だったのでもしかして今より資金繰りは楽だったな(笑)。

 駄菓子菓子、大学に入るも来る日も来る日も実験や授業に明け暮れポパイやホットドッグ・プレスの中にしか華やかなキャンパスライフなんぞは無かった。そうこうしている内に大学も4年生になってしまった。そして一ヶ月に渡る長い教育実習を経て、オイラ以外は皆教育者を目指していた。
前述の様に授業料が安いってダケの理由で教育学部に行ったオイラは卒業間際迄就職先を決めなかった。いや実は政治家になりたいと思っていたオイラは当時の政権与党本部でアルバイトをし、ツテを頼って文字通り目白御殿の門を叩いた。先ずは政治家秘書を目指したんだ。
当時の秘書と面談をしたのだが秘書の余りにも過酷な日常を聞きウブなSean青年は翌日丁重にご辞退し、その足で(?)求人情報誌を買い、当時は超レアな<週休二日制>と言うダケの理由で広告代理店兼制作会社の面接を受け、試験も無いまま即ご入社。実に大学を卒業する2週間前程前だった。
この時は未だやがて自身を不動産&建築業界に落とす(笑)とはツユ程も思わなかった…

って言う事で<学生編>はココ迄 

Sean Y.

<社会人編>は何かと差し障りが多いので書けない🦆…

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